愛知県にも戦争があった。「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」に行きました。

愛知

愛知・名古屋 戦争に関する資料館」をご紹介。

普段、紹介している珍スポットとは毛色が違うのだが、名古屋に訪れた人にはぜひ立ち寄って頂きたい場所だ。

「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」とは?

「愛知・名古屋 戦争に関する資料館(※以下『戦争に関する資料館』)」は、名古屋空襲を中心に、戦争に関する実物資料の展示を行う資料館。

戦争体験を次の世代に引き継ぎ、戦争の残した教訓や平和の大切さを学び、
平和な社会の発展に寄与すること
を目的としている。

入場は無料で、展示品には子供に向けたわかりやすい文体で説明書きがされている。

実物展示品のほかに、戦争に関する本や、戦争体験ビデオの上映が行われていた。

愛知県に残る空襲の被災地の写真などもあり、自分が住んでいる町にも被害があったのだということを実感させられる。

「戦争に関する資料館」は建物が美しい

戦争に関する資料館は、地下鉄名城線「市役所」駅4番出口から徒歩5分ほど。

レトロモダンなコンクリートの建物が目印。レトロ建築マニアが訪れることも少なくないそうだ。

1階外壁は石張り、2階以上はスクラッチタイルで覆われるとともに、手の込んだ装飾が施されている。昭和8年に建設。

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250キロ爆弾の実物が見れるよ

いざ見物しようと展示室に入ってみると、いきなり爆弾が目に入るので驚く。

これは1997年に警察署の工事現場から発見された爆弾。

火薬を装填すると492ポンドあったことから「250キロ爆弾」と呼ばれている。

はじめに|名古屋空襲とは

名古屋大空襲(なごやだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期、アメリカ軍名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうち特に市街地を標的として大規模に行われたものをいう。後者においては、中心市街地が罹災した1945年昭和20年)3月12日名古屋駅が炎上した3月19日、または名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。

wikipedia「名古屋大空襲」

<1942年(昭和17年)4月18日>

日本本土に対する初めての空襲が行われた。
この日、東京・横浜・川崎などの諸都市と共に、名古屋に対する空襲が行われ、死者8人、負傷者31人を出した。
この空襲はアメリカ陸軍航空軍から発信したB25爆撃機によるものであり、これを率いた陸軍中佐の名にちなみ、「ドゥリットル空襲」と呼ばれる。

<1944年6月>

新たに開発された当時最大級の爆撃機であるB29が投入され、九州北部への爆撃を行った。これは中国・成都の基地から飛び立った部隊によるものだった。

7月から8月にサイパン、テニアン、グアムが相次いでアメリカ軍に制圧され、これらの地を航空部隊の基地としてB29を配備した。サイパンなどに基地ができたことによって、成都の基地が抱えていた補給や航続距離の問題が解決され、これ以降、日本は繰り返しB29による空襲を受けることになる。

<同年-12月13日>

三菱重工株式会社名古屋発動機製作所を目標とする空襲が行われる。
これ以後、断続的に名古屋地域に対する空襲が行われる。

<1945年3月>

1945年になると、市街地を標的とした空襲も行われ、多くの民間人が命を落とした。

5月14日の空襲では名古屋城が消失

6月9日の空襲では、空襲警報が解除された直後に空襲があり、2000人を超える死者が出た。これら以外の地域でも空襲の被害があった(8月6日には世界でめて、広島に原子爆弾が投下される)。

愛知県内では、空襲によって1万人を超える人が亡くなり、多くの人が負傷したり、家を失った。

戦時下の人々の暮らしに関する展示

展示室の中央では、名古屋空襲を中心に、戦前の都市化・工業化、戦中の動向など、名古屋で起こった出来事の資料を展示している。

防毒マスク

空襲による毒ガス攻撃に備えるため、家に置いていたマスク。

中部防衛司令部灯火管制規定標準ビラ

空襲の恐れがあるときには、空襲の目標にならないように、電気を消したり、外に光がもれるのを防いだりしなければなりません。

これはその方法を示したチラシ。

高橋製強力消化弾

空襲で火災が起こったとき、火を消すための液体が入っているビン。

いつでも使えるように家に置いていた。

写真週報319号

政府の宣伝のために作られた写真中心の雑誌。

この号では、空襲警報が出されてから非難するまでの流れが紹介されている。

常日頃から空襲に備えることが大切だと呼びかけている。

空襲で変形した瓶

空襲の炎で変形したビールの瓶。

空襲の炎や熱がどれだけ高温だったかが分かる。

慰問袋とは?何が入っていた?

軍隊に入り戦地に赴いた人々に対して、出身地域などから、手紙や生活用品、たばこなどの品の入った「慰問袋」が贈られた。

慰問袋は郷土とのつながりを確認できるものであったため、戦場の兵士に喜ばれたが、出身地域や時期によって内容や頻度に差があったという。

慰問袋の発送は1942年(昭和17年)以降の戦況悪化により、次第に行われなくなる。

慰問の手紙

戦地にいる兵士を元気づけるために書かれた手紙。
「必ず慰問袋に同封するように」と奨励されていた。

この手紙は女学生などの若い女性が書いたもので、兵士への労りや、兵士を兄のように慕う文章がよく見られ、返信を受けた後に文通がはじまることもあったという。

女性がこの慰問手紙を書くための指南書もある。

お守りなど

戦地の兵士の無事や武運長久を願って、千人針やお守りが入れられた。

千人針とは、軍隊に入る人が戦場で活躍したり、けがや病気をしないようにとの願いをこめて千人の女性がひとり1個ずつ千個の結び玉をつくった布。

これを持っていると敵のたまに当たらないといわれていた。

正直、意味がないと思うし非生産的すぎるだろって感じだが、こういうものがあるとやっぱり貰った方は嬉しいのだろうか。もし自分だったら、作る側でも貰う側でも虚無しかないと思う。

ブロマイドなど

兵士をなぐさめるために、俳優などのブロマイドが贈られ、重宝された。

百人一首やパズルゲーム

娯楽の少ない戦地で喜ばれた玩具類。

紙でできたゲーム。
厚紙を線にそって切り、切り取った紙をいろいろな形に組み合わせる。戦時下らしい、「軍艦」も見られる。

戦地で遊んだ百人一首。
札は非常に薄い粗末なボール紙で作らており、恋歌の多い通常の百人一首カルタとは違い、歌人の絵はなく、なるべく「愛国の精神が表現された」和歌と関連のある絵が描かれている。

戦時下の学校教育に関する展示

日本武尊(やまとたけるのみこと)の絵本

武力に優れた英雄「日本武尊」などについて書かれた絵本。

国家に自分の命を差し出す意識を高めさせるための材料として使われた。

国民学校の子供の絵

小学校の子供たちが授業で描いた絵。

当時のマンガの登場人物が、外国人のような鬼を蹴飛ばしている。

戦時下の人々の服装など

当時の人々の服装に関する資料のコーナー。

当時のモンペや軍服、日章旗、出征祝いの旗などが展示されている。

戦後の地域の様子

日本のポツダム宣言受諾後、アメリカを中心とする連合軍は日本を占領した。

日本は進駐軍による間接政治のもと、再出発することとなった。

戦後は凶作や引揚者の増加により食事事情が悪化した。

食糧や生活用品の配給は不十分だったため、生産地への買い出しや闇市の利用などによって補わなければならなかった。

↓戦後に海外への輸出用に作られたとされる、ねじ巻き式の掛け時計。
文字盤に「占領下の日本」を意味する「MADE IN OCCUPIED」の印がつけられている。

企画展|「戦争と食」

この日は「戦争と食」がテーマの企画展が行われていた。

食糧統制により国民の食生活がどのように変化していったのかを実物資料と共に展示している。

※「戦争と食」企画展は2021年7月11日までの展示となります

主要食糧選択購入切符

農林省が発行した、麦・乾麺・小麦粉を買うための切符。

この券がないとお店でものが買うことができなかった。

まとめ|戦争に関する資料館へ行こう

自分は歴史の授業で戦争を学んだ。図書室で「はだしのゲン」を読んだし、ジブリ映画「火垂るの墓」は今でも金曜ロードショーで放映されるたびに絶対に観る。

しかし言葉は悪いが、一瞬で街も人も粉々にしてしまうようなレベルの核爆弾が日本に投下された、という出来事がまるで映画のようで、しかも76年も前に起こったことに対してリアリティーを感じなかったためか、戦争に関する嫌悪感は薄いものだった。

今回、「戦争に関する資料館」へ行き、自分の住む町も被害があったのだということを実感することができた。映画ではなく、現実に、爆弾が落とされたのだと。

戦争を経験したことのない自分が、戦時中に生きていた人々のこころを理解することはできない。安易に悲惨さを理解しようとも思っていない。大切なのは、事実を俯瞰し、人類の負の歴史を淡々となぞることだ。

近くに来た人はぜひ訪れてみるといい。見応えはバッチリです。

住所

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3丁目4−13 愛知県庁大津橋分室 1階

地下鉄名城線「市役所」駅4番出口から徒歩5分

開館時間・定休日

開館時間:午前10時~午後4時

休館日:月曜日・火曜日(祝日の場合は開館し、直後の平日が休館)

料金

無料

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